誤嚥があっても肺炎にならない? ― 90歳でも元気に食べ続ける高齢者から考える「肺炎を防ぐ力」
これまでの症例では、誤嚥性肺炎を発症した患者さんを中心に、その原因と予防についてご紹介してきました。今回は少し視点を変えてみます。「誤嚥性肺炎になった人」ではなく、「誤嚥のリスクがあるのに肺炎になっていない人」です。
高齢になると、嚥下機能は少しずつ低下します。検査をすれば軽度の咽頭残留や喉頭侵入が認められる方も珍しくありません。ところが、同じような嚥下機能でも、肺炎を繰り返す方がいる一方で、90歳を超えても一度も誤嚥性肺炎を起こさず、元気に食事を続けている方もいます。この違いは、どこから生まれるのでしょうか。今回は、「誤嚥をゼロにする」だけではない誤嚥性肺炎予防について考えてみたいと思います。
※ 本症例は、臨床でみられる経過をもとに構成した架空の複合症例です。
症例:R様(91歳・女性・仮名)
高血圧の治療を受けていましたが、大きな脳血管疾患や神経疾患の既往はありません。一人で歩くことができ、娘さんのご家族と一緒に生活していました。食事は基本的に普通食で、好きなものは魚料理と煮物。毎日3食をご家族と一緒に食べていました。
娘さんによると「水を飲んだときに、時々むせることがあります」とのことでした。しかし、これまで誤嚥性肺炎を発症したことはありません。90歳を超えていることもあり、一度嚥下機能を調べてみたいというご家族のご希望で評価を行いました。
当院での評価
嚥下機能には年齢相応の変化
嚥下機能を評価すると、決して「完璧な嚥下」ではありませんでした。軽度の咽頭残留があり、水分摂取時には喉頭侵入を疑う場面もありました。つまり「誤嚥性肺炎になっていない=嚥下機能が完全に正常」というわけではありませんでした。では、なぜR様は肺炎になっていないのでしょうか。そこで、嚥下機能以外の部分を詳しく見ていきました。
肺炎になりにくい状態を支えていたもの
よく歩いている
R様は、天気の良い日はほぼ毎日、ご家族と近所を散歩していました。買い物にも可能な範囲で一緒に出掛け、自宅でも自分の洗濯物を畳むなど、できることは自分で行っていました。高齢者では活動量が低下すると全身の筋肉量が減少しやすくなります。嚥下に関係する筋肉も例外ではありません。呼吸機能や咳をする力を維持するという意味でも、身体活動は重要です。R様には「動く習慣」がありました。
よく噛んで食べている
口腔内を確認すると、自分の歯が多く残っており、必要な部分には適切な補綴治療が行われていました。食事では時間をかけてよく噛んでいました。「急いで食べるとおいしくないでしょう」というのがR様の口癖でした。よく噛むことは、食塊を適切に形成して飲み込みやすくするだけでなく、唾液の分泌にも関係します。「噛める口を維持する」ことも、食べる機能を守る大切な要素です。
口腔内が比較的清潔
R様は毎食後に歯みがきをする習慣がありました。半年に一度は歯科医院を受診し、定期的な口腔管理も受けていました。誤嚥性肺炎を考えるうえで重要なのは、「誤嚥したかどうか」だけではなく「何を誤嚥したか」という視点です。口腔内の細菌を含む唾液が気道へ入ることは、誤嚥性肺炎の発症に関係します。そのため、口腔内を清潔に保つことは重要な予防策の一つになります。
よく話し、よく笑う
R様は非常によく話す方でした。ご家族との会話だけでなく、近所の友人とも電話で話し、週に一度は地域の集まりにも参加していました。話す、笑う、声を出す。これらは直接「肺炎を防ぐ治療」というわけではありません。しかし、口唇、舌、咽頭、呼吸など、食べることにも関係するさまざまな機能を日常生活の中で使う機会になります。そして何より、社会とのつながりが活動量や食欲を維持するきっかけになっていました。
しっかり食べている
R様は小柄でしたが、体重はここ数年間ほぼ一定でした。肉、魚、卵、豆腐なども食べており、極端な食事制限はありませんでした。高齢者の誤嚥性肺炎予防では、「誤嚥させないこと」に注意が集中するあまり、食事を過度に制限してしまうことがあります。しかし、食事量が減れば低栄養となり、筋肉量が減少し、さらに嚥下機能が低下するという悪循環に陥る可能性があります。R様の場合は「安全に食べる」と同時に「必要な栄養をしっかり摂る」ことができていました。
むせたときに、しっかり咳ができる
R様が水分でむせたところを確認すると、比較的力強い咳をしていました。これは重要な点です。気道へ異物が入りそうになったとき、咳はそれを排出するための防御機能です。つまり誤嚥性肺炎予防では、「誤嚥しない力」だけでなく「入ってしまったものを外へ出す力」も重要なのです。
私たちが考えたこと
R様には、軽度ながら嚥下機能の低下がありました。それでも肺炎を発症していませんでした。その理由を一つに決めることはできません。しかし、次の複数の要素が、結果として肺炎になりにくい状態の維持に関係している可能性が考えられました。
- 活動量が保たれている
- 栄養状態が良い
- 口腔内が清潔
- 咀嚼機能が保たれている
- 咳をする力がある
- 社会とのつながりがある
- 食事を楽しんでいる
対処・介入
興味深いことに、R様には大きな治療を行いませんでした。むしろ「現在できていることを失わない」ことを目標にしました。定期的な歯科受診を継続して口腔内を清潔に保つ。毎日の散歩を無理のない範囲で続ける。ご家族と一緒に食事をする。十分な栄養を摂る。そして、嚥下機能については定期的に確認する。「治療を追加する」のではなく、今ある健康な生活を守ること自体を予防と考えました。
経過
1年後もR様は自宅で生活し、普通食を召し上がっていました。軽度のむせは時々あります。しかし、肺炎の発症はありませんでした。
※ 経過には個人差があり、状態や基礎疾患によって異なります。「この生活をしていれば誤嚥性肺炎にならない」ということではありません。高齢者の身体状態は変化しますし、感染症や病気をきっかけに嚥下機能が急激に低下することもあります。だからこそ、現在の状態を定期的に確認しながら、変化を早く見つけることが重要です。
ご家庭でできる予防のポイント
誤嚥性肺炎予防というと特別な訓練を想像するかもしれません。しかし、日常生活そのものにも大切な予防の要素があります。
- できる範囲で歩く
- よく噛んで食べる
- 十分な栄養を摂る
- 毎日の口腔ケアを続ける
- 家族や友人と話す
- 声を出す機会をつくる
- 定期的に歯科を受診する
- むせや体重減少などの変化を見逃さない
「よく食べ、よく動き、よく話す」。非常に単純に聞こえますが、高齢になってもこれらを維持することには大きな意味があります。
おわりに
この症例から考えていただきたいのは、「誤嚥=誤嚥性肺炎ではない」ということです。誤嚥は肺炎発症の重要な要素ですが、それだけで肺炎のすべてを説明できるわけではありません。口腔内細菌、嚥下機能、咳嗽力、栄養状態、筋力、呼吸機能、基礎疾患、免疫状態など、複数の条件が重なって肺炎発症に至ると考えることが重要です。
だからこそ、誤嚥性肺炎予防の目標を「誤嚥をゼロにする」だけに置くべきではないと私たちは考えています。もう一つ重要なのは「誤嚥しても肺炎を起こしにくい身体と生活をつくる」という視点です。これは「なぜ同じように誤嚥しても肺炎になる人とならない人がいるのか」という問いにもつながっています。誤嚥だけを見るのではなく、その人全体を見る。そこに、これからの誤嚥性肺炎予防の重要なヒントがあるのではないでしょうか。摂食嚥下障害についてもあわせてご覧ください。
当院のワンポイント
目標は「誤嚥ゼロ」だけではありません。高齢になれば、嚥下機能にはさまざまな変化が現れます。大切なのは、口を清潔にする、しっかり食べる、身体を動かす、よく話す、咳をする力を保つ、そして小さな変化を早く見つける——こうした日常生活全体から肺炎予防を考えることです。
私たちは、「この患者さんは誤嚥しているか」だけではなく、「なぜこの患者さんは肺炎になったのか」「なぜこの患者さんは肺炎にならずにいられるのか」という両方の視点を大切にしています。誤嚥を診るだけではなく、肺炎になる人とならない人の違いを考える。それが、私たちの目指す誤嚥性肺炎予防です。通院が可能な方は外来(完全予約制)、通院が難しい方は訪問診療で対応します。
※ 本記事は特定の患者様の症例ではなく、個人が特定されないよう構成した典型的な複合症例です。記載した経過は複合症例に基づく一般的な例であり、治療経過には個人差があります。本記事の内容が特定の効果・予後を保証するものではありません。