「歯が痛くないから大丈夫」― 歯周病と口腔内細菌から考える誤嚥性肺炎予防
「歯は痛くないし、本人も困っていないので、歯医者には何年も行っていません」。高齢になると、通院そのものが大きな負担になります。そのため、「痛くなったら歯医者へ行けばいい」と考えているご家庭も少なくありません。しかし、誤嚥性肺炎予防という視点では、歯科受診の目的は「痛い歯を治すこと」だけではありません。今回ご紹介するのは、食事は比較的問題なく摂れていたものの、長期間歯科を受診しておらず、口腔内に歯垢や歯石、歯肉の炎症が目立っていた患者さんです。ポイントは、「誤嚥を完全になくす」ことだけでなく、「もし口腔内のものが気道へ入った場合を考え、口腔環境を整えておく」ことです。
なお、自分の歯がない方の舌や粘膜のケアについては総義歯と舌の汚れから考えたケース、入れ歯そのものの洗い方や保管については義歯の衛生管理から考えたケース、痛みをうまく言葉にできない方の口の痛みについては口腔内の痛みから考えたケースでご紹介しています。本記事は痛みのない歯と歯肉(歯周病・歯石など)を、定期的に確認することに絞ってご説明します。
※ 本症例は、臨床でみられる状況を参考に構成した架空の複合症例です。
症例:AM様(87歳・男性・仮名)
娘さん夫婦と自宅で生活していました。脳梗塞の既往があり、屋内では歩行器を使用しています。食事は自分で食べることができ、時々お茶でむせる程度でした。ある年、AM様は肺炎で入院しました。退院後、ご家族から誤嚥性肺炎の再発予防について相談がありました。娘さんは、「食事にはかなり気をつけています」と言います。一口量を少なくする、急いで食べさせない、姿勢にも気をつける、食後すぐに横にしない、さまざまな工夫をしていました。そこで、「最近、歯科にはいつ行きましたか?」と尋ねました。娘さんは少し考えて、「父は歯が痛くないので……5年以上行っていないと思います」と答えました。
当院での評価
口腔内を確認すると、歯の表面や歯と歯肉の境目に歯垢・歯石が目立ちました。歯肉には発赤や腫脹がみられ、ブラッシング時に出血する部分もありました。奥歯には食物残渣も残っています。本人に、「歯は痛くありませんか?」と尋ねると、「全然痛くないよ。だから歯医者はいらない」と笑いました。ここが重要なポイントでした。口の中に問題があっても、必ず痛みが出るとは限りません。特に歯周病は、初期から中等度では自覚症状が乏しいことがあります。そこでAM様では、嚥下状態の評価だけでなく、口腔内の衛生状態そのものを改善する必要があると考えました。
なぜ口腔内の清潔が誤嚥性肺炎予防と関係するのでしょうか
誤嚥性肺炎について、「食べ物が肺に入って起こる病気」というイメージを持つ方は多いと思います。しかし、誤嚥する可能性があるのは食べ物だけではありません。唾液や口腔・咽頭の分泌物などが気道へ入る場合もあります。口腔内にはもともと多くの微生物が存在しています。そのため、誤嚥性肺炎予防では、「誤嚥させない」という視点だけでなく、「口腔内をできるだけ良好な状態に保つ」という視点も重要になります。ただし、「歯周病があれば必ず誤嚥性肺炎になる」という意味ではありません。肺炎の発症には、嚥下機能、咳反射、全身状態、免疫機能、栄養状態、口腔環境など複数の要因が関係します。だからこそ、一つの原因だけを見るのではなく、複数の予防策を組み合わせることが大切です。
対処・介入
まず、歯の痛みの有無だけではなく、歯周病、むし歯、動揺している歯、歯垢・歯石、舌や粘膜、義歯、噛み合わせなどを確認しました。誤嚥性肺炎予防のための歯科介入は、「歯磨き指導だけ」ではありません。口腔内に感染源となり得る問題がないかを確認することも重要です。
家庭での歯磨きだけでは除去しにくい歯石などについては、全身状態にも配慮しながら歯科で対応しました。同時に、ご家庭で清掃しにくい場所を確認しました。AM様では特に奥歯の内側と歯間部に汚れが残りやすいことが分かりました。
娘さんは毎晩AM様の歯磨きを手伝っていました。しかし、「歯ブラシを口へ入れた」ことと、「必要な場所の汚れが落ちた」ことは同じではありません。そこで歯ブラシの当て方や、本人が磨いた後にどこを確認するかを具体的に共有しました。
口腔ケアは歯だけではありません。舌、頬粘膜、口蓋、義歯、口腔乾燥なども確認しました。ただし、舌を強くこするなど、粘膜を傷つけるような過剰な清掃は避けます。
「痛くなったら受診」から、「痛くなくても定期的に口腔状態を確認する」という考え方へ変更しました。通院が難しい場合には、地域や患者さんの状態によって訪問歯科診療を利用できることもあります。
経過
歯科での専門的な口腔管理と、ご家庭での毎日のケアを組み合わせました。しばらくすると、歯肉の炎症や口腔内の汚れは以前より改善しました。ご家族は、本人が痛いと言わなくても口の中に問題が隠れていることがあると知り、その後は、むせなかったかどうかだけでなく、口の中が清潔に保てているかにも目を向けるようになりました。
※ 改善の程度には個人差があり、状態や基礎疾患によって経過は異なります。もちろん、口腔ケアを行えば誤嚥性肺炎を完全に防げるわけではありません。また、AM様の肺炎が歯周病によって起こったと断定することもできません。しかし、嚥下機能と口腔環境の両方から予防を考えるようになったことは、再発予防の大切な一歩になりました。
ご家庭でできる予防のポイント
高齢のご家族では、「歯が痛いか」だけでなく口腔内全体を時々観察してみてください。
- 歯と歯肉の境目に汚れが付いていないか
- 歯磨きのときに出血していないか
- 歯肉が赤く腫れていないか
- グラグラする歯がないか
- 口臭が以前より強くなっていないか
- 奥歯や頬側に食べ物が残っていないか
- 舌に厚い汚れが付着していないか
- 義歯が汚れていないか
- 何年も歯科を受診していない状態になっていないか
痛みがなくても、口腔内に問題が隠れていることがあります。特に通院が難しくなった高齢者では、かかりつけ歯科や訪問歯科へ相談することも選択肢になります。
おわりに
誤嚥性肺炎予防というと、「どうすれば誤嚥しないか」を考えます。もちろん、それは大切です。しかし、高齢者では唾液や分泌物を含め、誤嚥を完全にゼロにすることが難しい場合もあります。そこで、もう一つの考え方が重要になります。「もし口腔内のものが気道へ入る可能性があるなら、その口腔環境をできるだけ良好にしておく」という視点です。食べ方を整える、嚥下機能を評価する、栄養状態を守る、そして、口腔内を清潔に保つ。誤嚥性肺炎予防は、一つの方法だけで行うものではありません。「誤嚥を減らすこと」と「口腔環境を整えること」を両輪として考えることが大切です。
当院のワンポイント
「歯が痛くない」は、「口の中に問題がない」と同じではありません。特に高齢になってから、何年も歯科を受診していない、歯磨きすると血が出る、口臭が強くなった、歯石が目立つという場合には、一度歯科で口腔内全体を確認してみてください。誤嚥性肺炎予防を、「飲み込みだけを見る予防」から「口の中まで整える予防」へ。毎日の歯磨きと定期的な歯科管理は、歯を残すためだけではなく、全身の健康を支える口腔管理の一部です。通院が可能な方は外来(完全予約制)、通院が難しい方は訪問診療で対応します。ケアマネジャーさま・施設さまからのご相談はこちらをご覧ください。
※ 本記事は特定の患者様の症例ではなく、個人が特定されないよう構成した典型的な複合症例です。記載した経過は複合症例に基づく一般的な例であり、治療経過には個人差があります。本記事の内容が特定の効果・予後を保証するものではありません。